小説版・エレベーターは無に還る


〇〇〇〇〇Side.A


久しぶりの地上は、荒れ果てていた。

並び立つビル群はびっしりと蔦が覆われ、アスファルトはひび割れ、所々排水管から水がしみだしている。

かつてはよく利用していたコンビニは、野生動物の住み家となっていたらしい。うっかり小動物の巣をふみかけ、親から散々小突き回されたA氏は、這う這うの体で住み慣れた街から逃げ出した。

たった5年間でこうも荒廃するものなのか。それだけ自然は偉大ということか。


「それとも、人類は案外大したことなかった、ってことかな……」


息を吐き、ひざを軽く叩く。故郷はもう十分見回った。地下シェルターの自室も掃除した。もう思い残すことはない。

A氏は天まで伸びる巨大な円筒形の建物の前で立ち止まった。

呼び出しボタンは赤く点灯し、内部の機械がまだ正常に動作していることを知らせている。

震える指でボタンを押し、エレベーターが到着するのを待つことにした。


「ん?」


ふと、物音が聞こえて彼は振り返った。

背後に小さな鞄を大事そうに抱えた女性が、所在なさげに立ちつくしている。ボロボロの大振りのコートは煤けて真っ黒だ。例えていうならたった今、地下から這い出たモグラとでもいうところ。


「こんにちは」

「こ、こんにちは」


女性は愛想笑いを化粧っ気のない平たい顔に貼り付け、もう一度こんにちはと繰り返した。いかにもおどおどした小動物じみた動きが、ますます彼女をモグラらしくみせた。

おそらく彼女も自分と同様、地下シェルターから抜け出してきたはぐれ者だろう。

同類をみつけたA氏は気をよくして、女性に話しかけた。


「まさか地上で人に出会うものとは思いませんでした」

「わ、私もです……えっと、貴方もエレベーターに……?」


はいと頷き、A氏はエレベーターを見上げる。

近代科学の叡智をつぎ込んだそのエレベーターは、彼をそのまま宇宙へと導いてくれるはずだった。そこで彼は、「あの日」を迎えるのだ。

背後でちーんと涼やかな鈴の音がして、エレベーターの到着が彼らに知らされた。

A氏は薄汚れた女性を一瞥し、断るだろうと思いつつ彼女を中に誘ってみた。

どうせ今日ですべて終わるのだ、ならば恥もかき捨てというもの。


「エレベーター、きましたね。一緒に乗ります?」

「あ、はい」


意外にも彼女はすんなりうなずき、ためらうことなくエレベーターに乗り込んだ。

A氏の気分は少々向上した。なんだか、いい日になりそうだ。

たとえ今日で世界が終わるとしても。


【エレベーターは無に還る】


※※※※Side.B


動き出したエレベーターの小さな機械音を聞きながら、彼女―……B氏はエレベーターに乗り込んだことを後悔し始めていた。

元々コミュニケーション能力が高くないことに加えて、相手は自分よりも体格の良い男性だ。いくら久しぶりにみつけたご馳走に気分が高揚していたとしても、軽率な振舞いだったかもしれない。

B氏がちらりと男性に目をやると、彼は好奇心の溢れた目で彼女の鞄を指さした。


「それ、何がはいってるんです?」

「あ……」


B氏は一瞬ためらったが、半ばやけくその気持ちで中に入っていたパンとワインを取り出した。今日は元々、これをとりにコロニーからわざわざ地上まで這い下りてきたのだ。


「おお、ワイン!久しぶりにみるなぁ」

「よかったらおすそ分けしましょうか?」

「よろしいのですか?」


図々しく眼を輝かせる男性に頷きながら、B氏は内心嘆息した。とはいえ、密室で初対面の異性に餌だけぶらさげて袖にする勇気もない。彼女は苦労むなしく千切られていくパンをみながら、せめてワインだけは目的地に到達してから開封してくれと男性に頼んだ。


「おお、すみません。酒をみると我慢できなくて」

「わかります。私も運ぶの怖くて……」


世界滅亡のニュースが入ってからこっち、生活もだいぶ変わった。当然のことながら人心は荒れ、社会秩序は無意味なものと化し、ワインなんて娯楽品はなかなか手に入らなくなった。生活拠点だって地上から宙へと変わった。

……結局、そこまでしても多くの人間は世界滅亡の日を目前に死に絶え、B氏の姉だって酷い暴行騒ぎに巻き込まれ、寝たきりになっている。

B氏はふと気になって、男性の目的を尋ねてみた。

もしかしたら自分とおなじことを考えるような酔狂な人物がいるのかもしれないと、ようやく思い当たったのだ。


「あの……貴方も終末の光景をみに、エレベーターへ?」

「ええ、君もそうでしょう?」


男性が茶目っ気たっぷりにウインクする。

B氏は少し頬を赤らませ、頷いた。自然、ほのかな笑みが口端に浮かぶ。


「まさか、私と同じことを考える人がいたなんて」

「そうですねぇ、こんな日に、普通ひとりでわざわざあそこへ行きませんよね」


ひとり者独特の連帯感でふたりは顔を見合わせる。

そして同時に、声を合わせて言った。


「上へ」

「下へ」


室内の、気まずい沈黙がふたりを包む。

お互い相手の言ったことが信じられず、どうにか言い間違いだったと否定してくれないかと数秒相手の目をみて、相手が否定しないのを悟ると、やがてしぶしぶ口を開いた。


「えっと……下、ですよね?方向」


そう、そのはずだ。B氏が乗っているのは海底エレベーターなのだから。


「何を言っているのですか。上ですよ、上。これは宇宙エレベーターですよ?」


すかさず男性の否定の言葉が、鋭く彼女の言葉を否定する。

B氏は眉をひそめて男性を値踏みした。よもや同乗した男は気狂いの類だったのかもしれない。


「何をおっしゃってるのです、海底エレベーターでしょう?感覚的にも下がっている」

「昇っているのですよ、重力でわからなくなっているだけだ」

「わけのわからないことを言わないでください」

「わけがわらないのは君の方だ」


口調はだんだんとトゲトゲしいものに変わっていった。

よくない兆候だ。わかっているのに、止まれなかった。エレベーターの速度と同調するように言い争いはヒートアップしていく。


「下です。絶対下。乗る前に確認しましたもの」

「上ですよ。どうせ食糧に気がとられてて見逃したんでしょう。だいたい地下シェルターに戻

るならともかく、海底になんて行って何をするのです」

「地下シェルターってなんのことです?妄想は大概にしてください」

「地下シェルターをしらない?きみはどこの未開人ですか。ニュース御覧になったことないのですか」

「欠かさずみてきましたよ、貴方こそ変な電波拾って来たんじゃないですか」

「いい加減にしてください」


男の声がひと際、鋭くなる。鋭い眼差しに、失言を悟ったB氏が顔を青くしたところで、ひと際大きくエレベーターが揺れた。

がこん、と大きな音がして浮遊感が消える。


「え」


ふたりは、言い争ったことも忘れて、エレベーターの扉をみつめた。


「今……」

「エレベーターが止まりましたね……」


B氏は、冷たい静寂の中に、エレベーターのモーター音が消えていることに気づいた。


〇〇〇〇〇Side.A


A氏は苛立ちをあらわに、エレベーターの内部をくまなく探索した。

味気のない灰色のドア、驚き慌てふためく小動物(女性)、そして魅惑のワインの瓶。何度目を走らせても、狭い室内をぐるりと回っても、見えるのはそれだけである。

ドア横には数字ボタンはおろか開閉ボタンもついておらず、上部に通常あるはずの階数表示もない。これでは上へ向かっているのか下へ向かっているのかさえ、わからない。

ただ、何の意味もない非常灯が冷たく彼の横顔を照らすばかりである。

どうして自分はこの異常事態に気づかなかったのだろう。いや、原因はわかっていた。彼は柄にもなく女性とふたりっきりの空間に浮かれていたのだ。

とはいえ、さきほど怒鳴ってしまったし、なんなら詰問に近いことをしてしまった。今は彼女も怒っていないようだが、どちらかというと恐怖に近い困惑が見受けられる。


「このエレベーターってこんな構造でしたっけ」

「海底エレベーター「は」違いましたね」


あからさまに「海底」を強調する彼女に、なおも苛立ちが募る。

初対面の印象と違い、なかなか気の強い女性なのかもしれない。

かわいくない女だ、と彼は腹の中でへそを曲げた。


「これからどうすればいいんでしょう……」

「僕に聞かないでください」

「ひとりごとです」

「ずいぶん大きな独り言ですね。もう少し静かにできないのですか」

「そんな」


女性は傷ついたように眉根をよせ、うつむいた。

また言い過ぎてしまった、と後悔が胸をよぎるが吐いた言葉は戻せない。

だからなのか、顔をあげた彼女に睨まれた時、言い訳のような言葉が口をついて出た。


「大体ここは何ですか、どうしてこうも息苦しい」

「……エレベーターなんて、そんなものでしょう」

「それだけだと思いますか?なんだか、僕たち以外の誰かも居るような……そんな息苦しさだ」

「馬鹿馬鹿しい。誰がいるんですか」

「誰がって……」


A氏は再度エレベーターを見渡した。

灰色の扉は、なんの音もたてず依然彼の視界いっぱいに広がっている。

隣には、モグラ改めハリネズミのように警戒心いっぱいの女性がひとり。……ひとり、のはずだ。

A氏は、エレベーターの壁によりかかって、目がしらを揉んだ。

幻覚だろうか、今エレベーターの灰色の扉の隙間から誰かの視線を感じた様な気がしたのだ。

自分は疲れている、と心の中で呟く。

疲れている、まいっている、だって世界が終わるのだから、そうなっても仕方がないのだと。……そう呟いて幻覚を振り払おうとする。

きゅぽんと、軽い音が背後で聞こえて、A氏は振り返った。

みれば栓抜きを握った女性が、ワインのコルクを抜いている。

驚きに目を見張った彼をよそに、彼女は飄々とうそぶいた。


「飲む前に死にたくないですから」

「さっきは開けるなと言ったのに」

「私のワインです。私が開けたい時に開けます」


ふふんと女性は鼻をならして、瓶に口づけラッパ飲みをする。

初対面の女性がみせる随分明け透けな姿に、彼は何と言ったらいいのかわからず、茫然とその様子を眺めていた。

すると、A氏の視線に気づいた彼女が、瓶から口を放し、「あまり見ないでくださいよ」と照れ笑いをする。

何故か。何故だろうか、その姿に―……こんな状況にも関わらず、A氏の鼓動はひとつ大きく高鳴った。初対面のはずの女性に、そうだこの笑顔だ、という奇妙な確信が胸によぎる。


「ずるい」


口についた言葉は何にたいしてだろうか。

だが、彼女の方はそれをワインのことだと受け取ったらしく、「回し飲みでよければすこしお譲りしますよ」とワインを手渡してくれた。


※※※※Side.B


しばらくして、大きな機械音と共に、また浮遊感を感じ始めた。


「あ」

「動き始めましたね」


少し笑って頷いた男性に、B氏はようやく一息をつく。

ワインで懐柔作戦はどうやら成功だったようだ。

貴重なワインが到着前になくなるのは残念だが―……世界の終りの日に、不機嫌な男性と一緒というのは精神状態によくない。

仕方ない、仕方ない。これも理想の「終わり」のための必要経費だ。生きてるだけで丸儲けだ……そう思いながらも、彼女の視線はみるみる減っていくワインにくぎ付けである。


「少しですからね、遠慮してくださいね」

「え?……ああ」


くすくすと男性が笑う。

なにがそんなに面白いのだろう。久しぶりのお酒に気分が高揚しているのだろうか。

ひと口が終わったら、すぐ返してほしいものだが、また不機嫌になられても困るし……返せといいだすタイミングを伺うB氏をよそに、男性はワインを手にしたまま滔々と語り掛けてきた。


「そういえばさっき海底っておっしゃいましたよね」

「そうですけど」


ワイン返してくれないかな。


「海底で何が起こるのですか?」

「ご存じでしょう?」

「それがご存じじゃないから聞いているのですよ。どうやら僕と君には認識の相違があるようだ」


この男は何を言っているのだろう、とB氏は首をかしげた。

遡ること5年前、世界はひとつのニュースで大騒ぎになった。

5年後、世界は海底火山の噴火により全世界各地で大津波が地上を襲い、やがて地球は滅ぶのだという。大陸プレートがどうたら、とか〇〇地域での地震発生率がどうたら、などと小難しいことを液晶画面ごしで学者がなにやら喋っていたが詳しいことはわからない。

B氏にわかったのは、ただもう自分には家族しか残されていないだろうということだけだった。

……そしてその家族も、世界滅亡の混乱の中で、失われていってしまったのだけど。

か細く震えた姉の細い肩や、去っていく父の背中が脳裏によぎり、B氏は慌てて思い出を振り払う。今日という「この日」は、もう思い悩まないと決めたのだ。

どうせ終わるなら、理想の「終わり」に向けて、せめて満足して死のうと、そう決めたのだ。


「いかがしました?体調でも悪いのですか?」

「あ、いえ……」


そうですか、ならいいのですけど、と男性はB氏を心配そうにみつめてくる。

ワインを渡してからこっち、やたらと態度が甘いような気がする。

人間にも餌付けって効くのだなとB氏は少し失礼なことを考えた。


「それで?一応ご説明しましたけど、津波がどうしたんですか」

「ふーむ……僕の方ではね、隕石が降ってくるのですよ」

「はあ?」

「人類は、隕石によって絶滅する。それが、僕らの滅亡シナリオなんです」


男の声に応えるように、再度エレベーターが止まった。


〇〇〇〇〇Side.A


ぽかんと開けた口が、まるでカバのように間抜けで可愛いなとA氏は思った。

どうしてだろう。目の前の女がどんどん可愛く思えてくる。

状況はそんな場合ではないのだが。


「また止まった……なんなのですかね、このポンコツエレベーター」


A氏が灰色の扉の様子を伺おうと振り返りかけたところで、勢いよく袖口を掴まれる。

震える小さな手。もちろんB氏だった。


「ど、どういうことですか?隕石って」

「そのまんまの意味です。僕はね、巨大隕石によって地球が滅亡すると教わった」

「誰から」

「もちろんニュースですよ。貴方とおなじく」

「そんな……そんなことって」


わなわなと彼女の指が震える。動揺を隠しきれないその手に、A氏はそっと手を重ねようとしたが、B氏の手は頭を抱えてかぶりをふった。

あわれ、宙をさ迷うA氏の指。


「ありえない、私に嘘をついているのでしょう!?」


ヒステリックに叫ぶ女性に、そんなことないですよとA氏は訴える。

きぃんと高く響く声は、狭い室内で少々耳に痛い。

しかし、彼はそんな状況には慣れていた。前にもこのように女性を宥めて慰めて……こんな、密室に、ふたりで?

くらりと軽い眩暈がした。

何故か女性の姿が二重にみえる。ああ、これは「前の記憶」だ、と彼は直感した。

そうだ、前にもこんなことがあった――そう思うと同時に、胸の奥にざらつく既視感が広がっていく。

彼女は、なかなか自分の話を信じてくれなくて、何度もお互いの状況をすり合わせて、その時もこんな密室で……そんなことあるのか?だってこの人とは初対面のはずなのに。


「ちょ、ちょっと。どうしたんです?」


うずくまるA氏の肩に、そっと女性の手が寄せられる。

その手を掴んで、A氏は言った。


「まるで物語みたい」

「え?」


泥で汚れた小さな手。この手のぬくもりを自分は知っている。


「以前君が言った言葉ですよ。奇妙なエレベーターに閉じ込められたふたり。お互い世界は今日で終わるのだと言う。しかし、その結末は二人とも違う。……なにかの物語みたいだと、貴方が言ったんです」

「なにを……」


戸惑う彼女の顔。この顔も、知っている。


「貴方、ここに来る前まで何をされてました?」

「食料調達を。言ったでしょう?」

「その前は?」

「コロニーで出発の準備を……」

「コロニー?それはどこにあるのです?」

「どこって宙です。地上に住めなくなった人類は、スペースコロニーを……あれ?」


女性が首をかしげた。次の言葉は、お互い同時に言った。


「「前も同じ会話をしていましたね」」


目が合う。強烈なデジャブを覚えた。

頭の端でちりちりと音がして、何か、自分がとんでもないことに気づきかけていることがわかった。これは、二度目だろうか。いや三度目かもしれない。記憶が重なり、世界が紙のように折りたたまれていく感覚があった。

女性の大きな目が二度三度、何かを確かめるように瞬く。


「私達、初対面ですよね?」

「ええ」

「でも……私、貴方の名前を知っているような気がします」

「僕もですよ」


口端をあげる。今の自分は上手く笑えているだろうか。


「君の名前のB」

「貴方の名前は……A」

「そのとおり」

「私達、まるであつらえたようにおそろいの名前だと……前の貴方は言った」


こちらを見上げるB氏に、A氏は頷く。

そしてまるで舞台にたつ役者のように、次に自分が何を言うべきか理解した。

彼はB氏を導かねばならない。それが、自分の役割なのだ。


「君は、家族の顔をおぼえていますか?」


※※※※Side.B


地面が揺れた。

一瞬、自分の鼓動の音かと思えたそれは、鉄骨を伝う機械の振動音だったようだ。

どっどっど、となぜか激しく主張する心臓を押さえ、B氏は平静を装った。

眼前の男性は、何が言いたいのだろう。わからない。……わかり、たくない。


「また、エレベーターが動き始めましたね」


へらりとB氏はだらしない笑みを浮かべた。嫌なときほど、笑ってしまうのがB氏の癖だった。


「答えてください」

「いま、私達どこらへんにいるんでしょうかね。上がってるのか下がってるのか」

「無視しないでください、Bさん」

「ホントいやになっちゃいますよね、外でなきゃよかったかな」

「質問にこたえてください、君もわかっているでしょう?」

「ちょっと、あんまり近寄らないでくださいよ、セクハラですよ」

「Bさん」

「だから……っ!」


男の言葉を否定しようとしてあげた声が、不自然に止まった。

息、が。

男と、自分以外の、息遣いが聞こえたのだ。

はぁっと深く、生温かい風を感じた。

背後から?……違う。

真上からだ。

おそるおそるB氏は上を見上げる。

あるのは当然エレベーターの灰色の天井。

……ではない。

それだけではない。

自分たちを観察するように見下ろす「大きな目」を彼女は見た。

大きな目の主は、まるで本でも抱えるように両手を広げて、彼らを見つめていた。

そう、それこそ本のページをめくるように―……


「落ち着いて下さい!」


身体にとんっと軽い衝撃を感じて、B氏は自分が床に崩れ落ちるように座り込んでいたことに気づいた。

はあはあと絶え間なく漏れる荒い呼吸に合わせて男が背中をさすってくれている。


「大丈夫。大丈夫ですよ、ゆっくり息を吸って」


男の声と共に息を吸う。


「吐いて」


安心する声。父親にだって、いつも緊張してしまっていたのに。


「これでも飲んで、落ち着いて下さい」

「あ、ワイン……」

「僕がだいぶ飲み干してしまいましたが」


冗談まじりのその口調が、自分を安心させるためのものだとわかる。

B氏は震える指でワインの瓶を受け取りながら、それでもなんとか言葉を紡ごうとした。


「ちがう、ちがうんです」

「はい」

「姉は、だって姉は言ったんです。最後まで生きてってだから私」

「わかってますよ」

「だから私、必死に考えて、生きるってなんだろうって、だから」


必死に言葉を重ねるごとに、熱いものが胸にこみあげてきた。

でも泣くことはできない。そこまで盛り上がれない。だって自分は気づいてしまった。知ってしまった。「物語」の存在に気づいてしまった。


「それも設定なんですよ」


男がB氏の内心を見透かしたように言う。

いや、実際「みた」のだろう。だって「物語」にそう書いているはずだから。

男の考えていること(モノローグ)は、B氏に筒抜けだし、B氏の考えていること(モノローグ)は男に筒抜けなのだ。


「僕らは物語の駒に過ぎない」


男はB氏の想い(モノローグ)を肯定する。

そう、B氏は気づいてしまった。

この「エレベーター」は舞台装置で、私達は物語の登場人物で、そして、この終わりに向かうだけの物語も、そろそろ終わる。

エレベーターはB氏の想いなど素知らぬまま、「終わり」へと連れて行ってしまう。


「そんなのいやです!」


B氏は溢れてくる想いそのまま、A氏の胸にすがりついた。

そうでもしないとわき目もふらず、泣きわめいてしまいそうだった。


「私はまだ終わりたくない。私は私の思い描いた終わりまでたどり着きたい。こんな、誰とも知らない誰かに操られたまま物語を終わらせたくない!」

「家族の思い出も、その願いも、すべては設定に過ぎないこと出しても?」

「それでも……っ!」


B氏はわかっている。

今から言う言葉だって、「物語」で決められた台詞がということを。


「それでも、信じたいのです。今ここでこう感じる私の気持ちは本当だってことを。私の言葉は操られていても、私の心はそうじゃない」


B氏はつづけて言葉を重ねるかわりに、思いを乗せて男の目をみつめた。

同じ操り人形の彼ならもしかしたら理解してくれるかもしれないと思ったからだ。

それは、奇妙な同族意識だった。


〇〇〇〇〇Side.A


空間を切り裂く鈴の音と共に、浮遊感が止んだ。

ふたりとも、すでにわかっていた。今度のこれはエレベーターの故障ではない。

ついに、目的地へと到着したのだ。

数秒の沈黙の後、静かに灰色の扉は開かれた。


「なにが、みえますか……?」


小さく尋ねるB氏に向けて、A氏は答える。


「真っ白です。一面濃い霧が立ち込めているような……ひょっとすると、これから先が白紙のページということかもしれませんね」

「白紙の、ページ……」


どこか呆けたような顔をした彼女に向かってA氏は慣れたセリフを読み上げた。彼女はいつも、この場所を認識しない。

それは彼女自身無自覚の「物語の登場人物である」という自己認識への抵抗なのかもしれなかった。


「きっとこの先へふたり進んでいけば、私達は「本当の終わり」を得ることができるのでしょう。ストーリーテラーは何も語らず、ページはめくられず、すべては白紙のページと黒いインクに還る」


A氏は考える。決められた台詞を読み上げながら、この奇妙な物語に囚われてしまった駒として、自分は何をすべきか考える。

「すべてを終わらせてしまいたい」という諦観に近い欲求と、「泣いている女性を見捨てられない」という義侠心に挟まれながら、考えた彼は―……結局、彼女に手を差し伸べた。

何度目かの自分と同じように。物語の筋書き通りに。


「さぁ、行きましょう。あそこが僕たちのおわりだ」

「いやです。私はいきません」


そして、筋書きのとおり彼女は拒絶した。


「なぜ」

「私はまだ、この終わりに納得できていません。私は、私の終わりを探します」

「まだエレベーターに乗り続けると?」

「……それしか、選択肢がないのなら」


無駄なことだ。

この「物語」は、ふたり一緒に「白紙のページ」に向かわないと終わらない。

A氏は自分が乗ってきたエレベーターを振り返る。

自分たちは何度、この物語を繰り返してきたのだろう。そしてこれから何度、繰り返していくのだろう。

もし、彼女が未だエレベーターに乗り続けるというのなら、それは。


「貴方……どうして笑ってるのですか?」


B氏に指摘され、A氏は自分が笑っていることに気づいた。

どうやら顔に出てしまっていたらしい。


「いえ、その……どうやら僕は嬉しいらしい」

「は?」

「君がそうやって、終わりを拒絶することで物語は続く……繰り返される。それはすなわちまた君と僕が出会うということだ。それが少し、嬉しい」

「貴方は、終わりたかったはずでは?」

 

「そうだね」とA氏は頷く。「物語」を正しい終わりに導くこと。どうやらそれが、この本の中でのA氏の役割のようだった。

A氏はいつも役割に忠実な駒であった。それゆえに、彼は物語から解放されたかった。

けれど、どうやら繰り返していくうちのその気持ちにも歪みが生じたらしい。


「僕はどうやら存外君を気に入っているみたいだ」

「気に入った、ですか」

「うん」


その言葉を聞いて、何故だかB氏は難しい顔をした。

嬉しいとも、怒りとも、どちらとも取れない顔だ。

彼女は何を考えているのだろう。

その答えを得る前(モノローグを読む前に)、A氏はB氏からワイン瓶を押し付けられた。中身は、もうひと口分しかない。


「餞別です。終わりへ旅立つあなたに」

「どうせまたすぐ会うのに」

「今ここで終わる貴方と、また始まる貴方は別物でしょう?」


どうやらそれが、彼女なりの「終わり」への向き合い方のようだった。

A氏にはわからない。わからないなりにワイン瓶に口をつけて飲み干して見せる。

そして、その様子をじっとみていた彼女に、筋書きどおりの台詞を述べた。


「さようなら、次の物語で」

「さようなら、もう会わない人」


女の顔が半分エレベーターに隠れる。灰色の扉が、モーター音と共に閉まっていく。

彼女の足元に広がる影は、幾重にも重なり、揺れて、やがてエレベーターの向こうに消えていった。

それを見届けて、A氏は呟いた。いずれまた始まる、彼女との物語に祈りを込めて。

今はまだ、その祈りの中身が何であるか、彼自身も自覚しないまま。

「エレベーターは無に還る。これにて」

めでたしめでたし。

七枝の。

声劇台本おいてます。 台本をご利用の際は、注意事項の確認をお願いします。

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