台本「鏡の中の顔のない女」の番外編ショートショート。
水城先生と木下が仲良くしてるだけ。
「こんにちは、先生」
「また来たんですか、文香さん」
「やだわ、木下と呼んでくれと言っているでしょう」
女は笑って、診察室の椅子に腰をかけた。
『もうこないだろう』なんて、どの口がいったのだろうか。あの衝撃的な暴露の後、木下京香改め、木下文香は堂々と本名で予約をとってきた。水城先生がお暇な時間帯におねがいします、との一言もつけて。
「嫌がらせですよ」
「わかっています」
文香はくすりと笑うと、私の手に自分の手を重ねてくる。
「これが先生の親しみの表現ですのね?小学生みたいで可愛らしいですわ」
「やめてください」
彼女の手をふりはらい、カルテに向きなおる。仕事、仕事、これは仕事だ。呪文のように繰り返し、自分に言い聞かせた。『これは仕事』
「えー、ごほん」
「体調にかわりはありませんわ。すこし寝つきはよくなったかもしれません。でも今度は逆に朝頭痛がするようになってしまって。薬をかえていただけないかしら?ああ、鏡はあいかわらず苦手ですが先生がおっしゃった通り姉と別居することにしたら、少しマシになりました」
「……ありがとう。診察は以上です。おかえりはあちら」
「やだ、先生。まってくださいな。少し気になることが」
「……なんですか?」
「先生は不能なんですか?」
絶句。
「あらあらあら」
木下文香は蛇のような目をして、にやりと笑った。ぞっと背筋の毛が逆立つような気がして、生理的な嫌悪感が勤労意識を上回る。
「かえってください!」
「傷つけたなら、謝罪いたしますわ」
「セクハラですよ」
「そんなつもりは。必死なアピールが伝わらないのが悲しくて、つい」
「あなたこそ嫌がらせをしたいだけでしょう!」
あらあらあら、とまた軽快な調子で、ころころと木下文香が笑う。
笑った拍子に、彼女のフレアワンピースの裾がふわりと動き、ほのかにシトラスの香りがした。
「わたし、本当に先生のこと気に入ってるんですよ。だからわざわざここへ通うのです。先生ほど、私の内面にふかく触れた人はいませんもの」
「ちゃんとした友達をみつけてください」
「実地でおともだちの作り方をおしえてくれませんこと?」
「小学生からやりなおしてみては?」
「では私達、お似合いですね」
足を組み替え、にっこりと笑うその姿がこれまた苛立たしい。眉がぴくぴくと痙攣しているのがわかる。典型的なストレスのサインだ。落ち着かなくては。
「最近、新たな生活の楽しみを見出しましたの」
黙って先を促すと、彼女は不服そうに頬をふくらませた。
「何か、ときいてくださいまし」
「……なんですか?」
ため息をついて、要求をのんでやる。すると木下文香は、くすりと笑ったかと思うと、おもむろに立ち上がり、踵をかえした。突然の退出の動作に驚いていると、彼女が振り返る。
「わたしを暴いた先生の、中身を暴き返すことです」
それではさようなら、と会釈をして去っていく。出会った当初とはずいぶん違う、雑な仕草で。
「わたしを暴いた先生の、中身を暴く、か………」
全く、困った患者だ。私自身、中身なんぞわからないというのに。
ためいきをついて、伸びをした。午後の診療は始まったばかりだ。比較的空いている時間とはいえど、これからぞくぞくと外来の患者がやってくるだろう。
「せんせー!次の患者さん入れて大丈夫ですかー?」
「はい、おねがいします」
看護師にそう応え、ふと何の気なしにスマートフォンを覗く。暗い画面に反射して映った私の口元は、なぜかゆるく弧を描いていた。
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